明石昌夫がB’zのアレンジャーをクビになった理由は?ネタ切れで自信喪失?

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B’zの“3人目のメンバー”とも呼ばれた明石昌夫さんって、どうして突然姿を消したの?
そんな疑問を持ったことはありませんか?

B’zの初期サウンドを支えた伝説のアレンジャー・明石昌夫さんは、1997年頃から表舞台から姿を消し、その後は「クビになった?」「不仲説?」など、さまざまな噂がネット上でささやかれるようになりました。

今回は、

  • 明石昌夫とはどんな人物だったのか
  • なぜB’zと離れることになったのか
  • その後どんな活動をしていたのか

について、信頼できる情報をもとにわかりやすく解説していきます。

ファンならずとも気になるその真相、一緒に探ってみましょう!

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目次

明石昌夫のプロフィールと音楽キャリア

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B’zのサウンドを支えた名アレンジャー

明石昌夫(あかし まさお)さんは、日本の音楽シーンを陰で支えてきた名プロデューサーであり、アレンジャー、ベーシスト、マニピュレーターとしても知られています。

特にB’zの初期サウンドにおいては、「3人目のB’z」とまで呼ばれるほどの重要人物でした

簡単にプロフィールをまとめると…

プロフィール
  • 名前:明石 昌夫(あかし まさお)
  • 生年月日:1957年3月25日
  • 出身地:兵庫県西宮市
  • 学歴:大阪大学基礎工学部 電気工学科 卒業
  • 所属:ビーイング(契約)

1988年、B’zのデビュー曲「だからその手を離して」の編曲を手がけ、プロの編曲家としてのキャリアをスタートさせます。

YouTube

その後、1997年までの約10年間、B’zのほぼすべての楽曲に関わり、アレンジはもちろん、ベースやマニピュレーションまで幅広く担当しました。

たとえば「ALONE」や「裸足の女神」などの名曲は、彼の繊細で大胆なアレンジによって、今なお多くのファンの心に残っています。

明石さんのアレンジは、打ち込みと生演奏を巧みに融合させた“ハイブリッドサウンド”です

90年代のJ-POPを象徴する音作りの中心にいたと言ってもいいでしょう!

他アーティストとの関わり

明石さんの活動はB’zだけにとどまりません。

90年代のビーイングブームを支えた多くのアーティストたちの作品にも深く関わっています。たとえば…

  • ZARD「揺れる想い」
  • WANDS
  • 大黒摩季
  • T-BOLAN
  • TUBE
  • MANISH
  • SIAM SHADE
  • Janne Da Arc
  • V6、華原朋美、西城秀樹など

彼のアレンジが関わった作品は、枚挙にいとまがないほど。

また、明石さんは「AKASHI MASAO GROUP(AMG)」という自身のバンドを結成。

ライブ活動も行っており、演奏家としての顔も持っていました。

明石昌夫さんは、まさに“職人”とも呼ぶべきサウンドの魔術師

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「クビになった」は本当か?ネット上の噂と真相

J-ROCK

明石昌夫のがクビになったと噂された?

ネット上では、

明石昌夫はB’zからクビになった

松本孝弘や稲葉浩志と不仲だった

アスペルガー症候群が原因で外された

など、さまざまな噂が飛び交っています。

明石さんは、実際発達障害があるとカミングアウトされているのですが、それが原因でクビになったのでしょうか?

ほとんどが憶測や、一部の発言切り抜きみたいな感じで噂が独り歩きしますが…

実際は“クビ”ではなく“方向性の違い”?

明石昌夫さんは、クビになったのではなくアレンジのネタが尽きてしまったというのが真実と思われます

明石さんは、「クビになった理由」を動画で語っていました。

YouTube

セブンスブルーズはね7枚目じゃないですか
だから10曲ずつぐらいやるわけなんで

もう何十曲ってアレンジやってるでしょ?
でそうするともうさすがにネタ尽きるんですわ

松本さんていうのはものすごく人間関係とかもそういうことをすごい重視する人なんですよね

そっちが当たり前だと思うんですけども

僕はよく言ってるみたいに、なんかアスペルガーっていうASDって発達障害なんで

そういう人間関係とか人の気持ちとかそういうのが

ものすごいわからないタイプの人なんですよね

なんでおそらく僕が何か色々やってることが松本さんから見たら

ちょっと何でこんなことするんだろうみたいなことがめちゃくちゃいっぱいあったと思うんですよね

今考えれば早く辞めさせたいなって思ってたんじゃないかなと思うぐらい全く違うタイプの人間だったりするんですよね

実際のところ、明石昌夫さん自身がインタビューや動画などで語っている内容を見てみると、話はまったく違ってきます。

  • B’zのアルバム『The 7th Blues』の制作時、「もうやり切った」と感じた
  • 特に「MOTEL」のアレンジが難航し、自分の限界を感じた
  • 同時期にSIAM SHADEなど外部アーティストのプロデュースが始まり、ビーイングとの方針にズレが出てきた
  • 「自分が松本さんの気に障ることをしてしまったかも」と語るも、不仲やケンカ別れではない

“クビ”というよりも、音楽的な創作の限界や事務所との方針の違いだったのですね…

加えて本人の新たな挑戦志向が重なった結果、「自然なかたちでの卒業」といったほうが正確です。

松本孝弘や稲葉浩志の発言・インタビュー内容から読み解く

松本孝弘さんや稲葉浩志さんが「明石昌夫をクビにした」と明言した事実は一切ありません。

松本さんは音楽制作において、チームワークや信頼関係をとても大事にする人として知られています。

もちろん、明石さんがアスペルガー症候群であることから、コミュニケーションの難しさを感じた場面もあったかもしれません。

ですが、それが直接的な理由で「外された」という証拠はありません。

むしろ、B’zは明石さんの離脱後も活躍を続けつつ、明石さんの功績を「B’zサウンドの礎を築いた存在」として、今もリスペクトしていることが見てとれます。

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B’zとの決別後の明石昌夫の活動とは?

DJM

作編曲家・プロデューサーとしての再出発

B’zのアレンジャーとして絶大な存在感を放っていた明石昌夫さんですが、1997年にサポートメンバーを卒業。

その後ビーイングからも離れてフリーの音楽家として新たなスタートを切りました。

  • 994年:自身のバンド「AKASHI MASAO GROUP(AMG)」を結成し、大阪を拠点にライブ活動
  • 作編曲・プロデュースしたアーティスト:
  • SIAM SHADE
  • Janne Da Arc
  • La’cryma Christi
  • 島谷ひとみ
  • V6
  • 華原朋美
  • 西城秀樹
  • アリス など

ジャンルを問わず幅広く手がけていたのが明石さんの特徴です。

ヴィジュアル系からJ-POP、さらには演歌・歌謡曲寄りのアーティストまで柔軟に対応できるその実力は、業界内でも高く評価されていました。

また、2003年には『音楽を作る売るという仕事―そこが知りたかった! ギョーカイの掟』という本を出版。

Amazon

音楽制作だけでなく、ビジネス面についても語れるプロフェッショナルとして、後進の参考にもなった一冊です。

現在も音楽業界で活躍中?

晩年の明石さんは、教育者としての顔も持っていました。

洗足学園音楽大学で教授として教鞭を執り、若い音楽家たちの育成にも情熱を注いでいたんです。

さらに、YouTubeやSNSを活用して音楽理論の解説や演奏動画を発信したり、オンラインレッスンを行ったりと、デジタル時代の流れにもしっかり対応。

実は「メンタル心理カウンセラー」としての資格も持っており、音楽を通して心のサポートも行っていました。

そんな多才な明石昌夫さんですが、2025年5月24日、68歳で惜しまれつつこの世を去りました


B’z、ZARD、そして多くのアーティストのサウンドを根幹から支えた彼の功績は、今もなお多くのファンや音楽関係者に語り継がれています。

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まとめ

今回は、明石昌夫さんがB’zのアレンジャーをクビになった理由について調査していきました。

クビになったというより、アレンジのネタ切れで「卒業した」といったほうが納得のできる理由でした。

残念ながら、2025年5月24日に永眠されたと発表がありました。

また一つの時代が終わったような気がして残念でなりません。

心より御冥福をお祈り申し上げます。

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